取手市の歴史

取手という地名の由来としては、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪場付近)があったことから名づけられたと言う説が有力ですが、平安時代末の11世紀には、伊勢神宮の 相馬御厨として、取手市周辺がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などといった地名も、相馬氏の領地として史料に出てきます。

このあたりが、取手という地名の発祥とも言われています。

 

また、市内の各地からは、中妻貝塚や向山貝塚といった縄文時代の遺跡をはじめ、旧石器時代から奈良・平安時代にかけての遺跡が78カ所も発見されており、このことから、古くから人々の生活の地であったことがうかがい知れます。

 

天和・貞享年間(1681年~1688年)に水戸街道がつけ替えられると、取手は北相馬地方の中心を担う宿場町として発展しました。現在でもその名残は、取手宿本陣が残っていたりします。

江戸時代には、利根川に面した地形を活用し、船を利用した水運も盛んになっていきます。戸頭取手・小堀といったあたりには河岸が作られていき、特に小堀は荷物の積み換えを行う河岸として、大いに栄えました。

水運に恵まれた土地である事は、一方で水害とも背中合わせになる運命を持っているのかもしれません。利根川小貝川に面していたこの地域は、台風や大雨による度重なる水害に悩まされてもきました。中でも、吉田、青柳などの地区は周りに比べると低地となっているため、一度水害が起きると被害も大きくなり、今でもこの地に残る水屋が当時の水害の傷跡と、それに対抗しようとした人々の歴史を物語っています。

 

その後、明治維新を経て、明治4年の廃藩置県によってこの地域は印旛県に属するようになります。

 

さらに明治6年には千葉県、明治8年には茨城県に編入されてきました。また、 明治18年の地積編成によって取手宿と大鹿村が合併して取手駅となりました。明治22年には市制町村制の施行により、取手町(取手駅・台宿村)、寺原村 (寺田村・桑原村)、井野村(長兵衛新田・青柳村・吉田村・小堀村・井野村)、稲戸井村(稲村・野々井村・米ノ井村・戸頭村)、高井村(上高井村・下高井 村・貝塚村・市之代村・同地村)、小文間村の1町5カ村が生まれました。

 

昭和22年には井野村と取手町が合併、さらに昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生しました。

 

昭和40年代にはいっての高度経済成長期には、首都圏近郊都市としてのこの地域の重要性が増してきます。そんな中、茨城県初の日本住宅公団による住宅団地の開発や、民間企業による宅地開発、及び民間大手企業の進出などにより人口が急増していきます。

そして、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が生まれます。

その後、昭和50年代に入ってからも、住宅・都市整備公団による戸頭団地をはじめとした宅地開発が進み、都市基盤の整備にも力が注がれました。

昭和57年11月には、常磐線に各駅停車として乗りいれていた地下鉄千代田線が、我孫子駅から取手駅まで延伸され、取手駅までの相互乗り入れが開始されます。同年12月には、非電化区間としては非常に珍しい、関東鉄道常総線の複線化が行われます。取手駅を中心としたこれらの鉄道路線の充実は、首都圏からの南の玄関口として大いに機能してきました。

その後、昭和60年代から平成にかけては、取手駅周辺地区の開発や東京芸術大学取手校がオープンしました。後に、東京芸術大学に先端芸術表現科が開設されたことを契機として、市民・大学・行政が一体となったまちづくりが進められるようになり、文化と芸術産業が一体となって発展を目指す姿が出来上がりました。

平成17年には、隣接していた北相馬郡藤代町との合併によって人口10万人を突破し、それと同時に茨城県の「まちづくり特例市」に認定されています。

 

取手市の成り立ち                       取手市の市章・花・鳥

 

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